昔の写真2 - 管理人
2019/05/16 (Thu) 22:47:53
もう1枚は大阪の梅田OSボウルの建物外観の写真です。
ピンタワーからBWという事がわかります。
60レーンあったそうですが、2フロアなのか3フロアなのかがはっきりわかりません。
資料も殆ど無く、残念ながら場内の写真はありません。
Re: 昔の写真2 - 律子さん
2019/08/22 (Thu) 01:02:05
皆さんこんばんは。

管理人様がアップされた外観の写真は私が持っているものと同じでした。そこで梅田OSボウルの内部を紹介する画像をアップします。画像はニットーボウルのスレッドで紹介した業界紙「ボウリング場経営」に登場する梅田OSボウルです。

紙面には高千穂データーポイント2200を駆使してコンペのスコア管理をしていると記載されています。左隅の写真から点灯しているピンタワーも確認できます。

梅田OSボウルにまつわる思い出があり、このセンターの名前は幼少のころに聞いたことがあったのですが、すでに廃業していて所在地は不明でした。梅田阪急ファイブの最上部2フロアの各階に30レーンで合計60レーンでしたが、横浜ニットーボウル同様オープンがブーム終焉直前の1972年12月だった為長くは営業していないと思われます。

ブーム終演後は映画館に転用されました。

Re: 昔の写真2 - ボウラーK
2019/08/22 (Thu) 23:18:42
律子さん

興味深い情報をありがとうございます。
「高千穂データーポイント2200」というものをはじめて聞きましたが、ググってみると、パーソナルコンピュータの走りのような機能を持った端末だったようですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Datapoint_2200

「Datapoint 2200」はアメリカの会社の製品のようですが、「高千穂」が商社として輸入していたのかなと思われます。得点集計タスク?も輸入物だったのかな?
当時の価格は6000ドル~だったようですが、1ドル308円とすると本体だけで200万円以上したのでしょうね。
http://www.old-computers.com/museum/computer.asp?st=1&c=596

これだけコストをかけても会員がたくさん集まってペイできると見ていたということですね。時代の勢いを感じます。

それと、記事でユニークだと思ったのはボウリング場入場の際に貸し靴をはかなければならないこと。スリッパに履き替えるセンターはありましたが、貸し靴で入場というのは他にあったのかな?

あと、記事の下の方に見える「ボウリングピン補修・・・」という広告。当時はこのような商売がたくさんあったと想像すると、ここからも時代の勢いが感じられます。
Re: 昔の写真2 - 律子さん
2019/08/23 (Fri) 16:52:55
ボウラーK さん

高千穂データポイント2200の解説ありがとうございます。
価格もさることながら同機が現代のPCの機能を既に持っていたのには驚きました。ご指摘のとおり当時はここまでの投資を行っても回収できると思っていたか、それとも乱立するセンターの中でも独自のサービスを提供することで差別化を図ろうとしたのかもしれません。

貸し靴を履いてセンターに入場する施設はあまり聞いたことがありません。通常はスリッパに履き替えて貸し靴を借りて履き替えていたと思います。ボウリングピンの補修サービスやレーンメンテナンス機器に関する広告はボウリングファンにも散見されました。それまでのボウリング事業がいかにドル箱だったかを物語っています。

ひとつ気になるのはボウリングブーム終焉は1973年といわれてますが、第一次オイルショックは73年11月に発生して業界に多大なる影響を及ぼしました。ガススタは日曜日休業を余儀なくされ、レジャーブームに水を差す結果になったと思いますが、私の記憶ではボウリングファンの巻末(だったと思います)に開業センター数と閉業センター数が記載されていて72年頃から閉業センターが増えたと記憶しています。

上記をまとめるとブーム終焉の原因は長い待ち時間によってボウリングに飽きた人たちが増え、それまでの高度成長期の楽観ムードがオイルショックによって当時3000以上あったセンターの稼働率が一気に減少して特に大規模センターは悲惨な最期を迎えたことは容易に想像できます。
Re: 昔の写真2 - 管理人
2019/08/26 (Mon) 21:23:49
律子さん
遅れて申し訳ありません。
梅田OSボウルの当時の事がわかる貴重な画像ありがとうございます。
ライトアップされたピンタワーが白黒でも綺麗に写っています。
今では「ピンタワー」と言ってますが、昔はコーナーの名前にもなっていますが「シンボルピン」と言っていましたね。
今でこそピンタワーが無いセンターが多くなりましたが、昔は高い建物が無かった分、看板として非常に有効なものだったと思います。
アストロラインも非常に綺麗に見えます。コンピューターなど当時の最先端の技術が導入されていて、当時のボウリングが如何に凄かったかがわかります。

ちなみにボウリング衰退の原因とされるオイルショックが1973年の11月でボウリング場の閉鎖が1972年ごろから増えたというのは律子さんの仰る理由が大きいと思いますが、センターが乱立していて完全な供給過多であった事も理由の一つと思っています。目と鼻の先にセンターがあったり、ちょっと大きな駅には何件もあるのは当たり前で首都圏では各駅にボウリング場があったり、住宅街にセンターがあったり、民家が無いようなところにあったり、その割に大規模なセンターが多かったので客の奪い合いが起きていたと私は親から聞きました。


Re: 昔の写真2 - 律子さん
2019/08/26 (Mon) 23:40:53
管理人 様

レスについては気にしないで下さい。私もこのスレを見落としてましたから 笑。梅田OSボウルは画像から黒にオレンジのスターライトだったことがわかります。昔のセンターには必ずシンボルピンがありましたね。私が幼少期を過ごしたマンションから川向かいにあったセンターのシンボルピンが夜空に光ってました。

ブーム衰退の原因のひとつとしてレーンの過剰供給状態は間違いなくあったと思います。以前にも書きましたがブームのピーク時はこれだけの稼働レーン数があっても3時間程度の待ち時間は普通だったそうです。

管理人様が指摘されたようにセンター同士の客の取り合い合戦はボウリングファンの紙面にも紹介されていました。豪華な景品を用意するセンターやゲーム料金を値下げするセンター、スタンプを出すセンターなど様々でしたが、飽きた客を呼び戻すことは出来ませんでした。

OSボウルの近くにあったセンターは以下の通りです。
梅田スポーツガーデン 40レーン
百又ボウル 60レーン
桜橋ボウル 60レーン

上記以外に梅田にはあと数件のセンターがありました。稼働レーン数は400近くあったと思います。

  1. (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)
  2.